月: 2025年3月

反生活の魔術

戸棚の奥の食器を取ろうとして、腕をぶつける。べつに余所見をしていたわけではないのに。そういうことがしょっちゅうある。
定型者も小指を棚にぶつけることなどはあるらしい。でもたぶん、同年代で平均値が割り出せるとしたら、わたしは体をどこかにぶつける回数が多いほうだろう。注意力散漫というか、散漫な面もあるのだが、肉体と魂・意識などと呼ばれるものがつねにズレている。
大好きな映画「ヒドゥン」の、人間の内部に寄生し、ぎこちなく肉体を動かすエイリアンのような。「超人間要塞ヒロシ戦記」の、青年ヒロシが実は極小のヒト型生物が操縦する要塞のような。ああいう「ヒトの姿をしているが、中身は違う」イメージのSFは、わたしにとって、体感としてリアルだだ。

そんな感じだから、「地に足がつく」という言葉が実感として理解できる気がしない。そして、なんとなく、その言葉が厭だ。重力と肉体を意識し一致させるべき、というのが。

森茉莉のエッセイが好きだ。包丁は苦手らしいが煮炊き中心の料理は得意であったり(本人談)、度を超した着道楽であったり、テレビに文句を言ったり、日常を送っているのだが、どこか、ズレたような感じがある。
森茉莉は決して広くない部屋を、美意識で上書きしている。
そういう生活を送りたいよな、と思う。
わたしは切り抜きを肖像画だと思って暮らしたいし、雑然と本を詰め込んでいるだけの本棚を書庫や書斎と呼びたい。

最近、そういうことをよく考えている。
自分が「ここ」から少しずれていることを、こころよく感じるための方法。反生活の魔術と呼んでいる。

ゼノジェンダーとオブジェクト

最近まで「わたしは…な人間…」という言い方を、主にSNSでよくしていた。
しかし何か、いつも引っかかるような感じがあって、違和感というか、あっこれ「性別違和はあるけどトランスジェンダーというわけではない、性別違和の多少ある女性」と自己認識していた頃と似た感じじゃない!?もしかしてわたしはゼノジェンダーなのかもしれない。そう書いてみた瞬間、これだ、と思う。暫定、わたしはゼノジェンダーです。

以降の記述では、人権の話はしていない。
あくまでわたしの、認識の話である。

この記事を興味深く読んだ。

【検証】自分について占われた結果がどれか当てることはできるのか?【占星術】 | オモコロ https://omocoro.jp/kiji/501429/

わたしはダ・ヴィンチ恐山の日記を読むのが好きだ。
たまに「他人」(の内面)の認識に関する言及があって、自分はどうだろう、と考える。

他人に自我が存在することが怖いか?というとわたしの場合は、Noだ。
怖いというほど理解していないと思う。

わたしは、実在する人間と、脳内で勝手に喋りはじめる衝動的な「声」、逆にそれを咎める過度に抑圧的な「声」と、わたしが書く小説のキャラクターと(たまに「こうすることは可能か?」と尋ねてストーリーの軌道を変更することはあるが、基本的にわたしの言うことなんか聞かない)読んでいる漫画や小説のキャラクターと、「尊重すべきオブジェクト」の違いが、
どうも根本のところで、よく分かっていないような気がする。

別個のものだ、そう扱うものだ、というのは理解している。
だが、直感的に腑に落ちない。

この感覚を言葉にすると、不快に感じる人がいるだろうというのは想像できる。

自分の脳内も肉体も、自分の意図通りには動かないことが多い。

わたしが人形に触れると、
わたしは熱量を消費し、
ドールは少しだけ変化し、
ドールというオブジェクトの最期のときまでのねじが少し
(ドールが黙って座っているときよりは大きく)巻かれる。ドールの佇まいが変化する。少しだけ世界のあり方が変わる。

わたしが万年筆をつかって文字を書くと、
わたしは熱量を消費し、
万年筆はインクを消費し、「万年」の時間が少し
(万年筆が机の上に置かれているときよりは大きく)減る。
紙に文字が記される。少しだけ世界のあり方が変わる。

わたしはこれらをコミュニケーションのように感じていて、
これとヒトとヒトとのコミュニケーションの質的な差違が、あまり、分かっていない。

よく喋る点A

きのうの日記で「頭の中の声」について書いたので、これについて書きたいと思う。

「頭の中の声」と書いたが、わたしの思考が音声の形式で聞こえることはほぼ、ない。
「考え」は、頭の中で、基本的に文字の形をしている。ルパン三世のサブタイトルのように高速で一文字ずつ現れることもあれば、殺し屋1の映画版のエンドロールのように横向きや縦方向に文字が流れていくこともある。脳みそが過活動な状態だと、横向きに流れていく文字と縦方向に流れていく文字が重なる部分が十字になったりする。

いつもというわけではないが、何かできごとがあると、だいたい自動的に二種類の「考え」が浮かぶ。
Aはほとんど反射だ。衝動的で、喧嘩っぱやく、暴力的だ。
Bは即座にAを押し留めようとする。倫理や理性とも言えるが、内面化した規範でもある。わたしの人格に近いのは、どちらかというとBである。

たとえばニュースを観ていると、
A「絶対に許せない!暴力もやむを得ない」
B「暴力はいけない!」
といった感じだ。
Aの「考え」が浮かぶことを、わたしは抑えることができない。BはAが喋るとほぼ自動的に出現する。Bはわたしの人格に近い存在でありつつ、完全に制御しているわけでもない。だからどちらも、「声」のように感じている。

AとBは双方ともに極端だ。両者を統合する必要があることも多い。
「わたし」はAとBとの落とし所をつけ、現実的な手段について考える。あとから現れる「C」だとも言える。CはABほど自動的ではない。意識的に「考えている」ことだ。

というのがわたしの基本的な「思考」の流れである。
漫画でたまに見かける「天使と悪魔」やモノローグの葛藤って、こういう思考経路を表現したものと思っていた。人間がこういう思考経路を辿るわけではないと知って、新鮮に驚いている。どおりでなんかわたしが「遅い」わけである。多いんだよな…なんか、途中で挟まるものが…。

そうだけど、そうじゃない

鬱々としていた。
住んでいるところが嫌いだ。
千葉県なので東京までの所要時間は比較的短い方だが、
それも長距離運転ができれば、不安がなければの話だ。
家族に送迎をしてもらえるのは恵まれたことだが、
自分の娯楽にいちいち伺いを立てていることに、ときおり泣きたくなる。
頑張ればできるんじゃない?と頭の中でもう一人のわたしが言い、
そのためにまた落ち込む。
あらゆる楽しいことが自分から遠いところにある気がする。
このままこの土地のことを憎んで死んでいくのか…
うーん、人生で何度もあった鬱!と思っていたら、
家族が真剣な顔で、話があると言う。
家業が立ち行かなくなり、この家は差し押さえになるという話だった。
確かに「ここ」を出たいとは思っていたのだが。

人の願いを最悪のかたちで叶える聖杯か何かでいらっしゃる?

今は悪態を吐きながら、もう少し便利で、彫金のできる転居先を探しています。