最近まで「わたしは…な人間…」という言い方を、主にSNSでよくしていた。
しかし何か、いつも引っかかるような感じがあって、違和感というか、あっこれ「性別違和はあるけどトランスジェンダーというわけではない、性別違和の多少ある女性」と自己認識していた頃と似た感じじゃない!?もしかしてわたしはゼノジェンダーなのかもしれない。そう書いてみた瞬間、これだ、と思う。暫定、わたしはゼノジェンダーです。

以降の記述では、人権の話はしていない。
あくまでわたしの、認識の話である。

この記事を興味深く読んだ。

【検証】自分について占われた結果がどれか当てることはできるのか?【占星術】 | オモコロ https://omocoro.jp/kiji/501429/

わたしはダ・ヴィンチ恐山の日記を読むのが好きだ。
たまに「他人」(の内面)の認識に関する言及があって、自分はどうだろう、と考える。

他人に自我が存在することが怖いか?というとわたしの場合は、Noだ。
怖いというほど理解していないと思う。

わたしは、実在する人間と、脳内で勝手に喋りはじめる衝動的な「声」、逆にそれを咎める過度に抑圧的な「声」と、わたしが書く小説のキャラクターと(たまに「こうすることは可能か?」と尋ねてストーリーの軌道を変更することはあるが、基本的にわたしの言うことなんか聞かない)読んでいる漫画や小説のキャラクターと、「尊重すべきオブジェクト」の違いが、
どうも根本のところで、よく分かっていないような気がする。

別個のものだ、そう扱うものだ、というのは理解している。
だが、直感的に腑に落ちない。

この感覚を言葉にすると、不快に感じる人がいるだろうというのは想像できる。

自分の脳内も肉体も、自分の意図通りには動かないことが多い。

わたしが人形に触れると、
わたしは熱量を消費し、
ドールは少しだけ変化し、
ドールというオブジェクトの最期のときまでのねじが少し
(ドールが黙って座っているときよりは大きく)巻かれる。ドールの佇まいが変化する。少しだけ世界のあり方が変わる。

わたしが万年筆をつかって文字を書くと、
わたしは熱量を消費し、
万年筆はインクを消費し、「万年」の時間が少し
(万年筆が机の上に置かれているときよりは大きく)減る。
紙に文字が記される。少しだけ世界のあり方が変わる。

わたしはこれらをコミュニケーションのように感じていて、
これとヒトとヒトとのコミュニケーションの質的な差違が、あまり、分かっていない。