月: 2025年2月

「悪魔と夜ふかし」

もう少しブログの更新の頻度を増やしたい。ので、観た映画の話をする。

「悪魔と夜ふかし」の配信が始まっていた。昨年話題になっていたので、ぜひ観たかったのである。深夜放送という題材的にも家での視聴に向いているだろう。
面白かった。
ジャンル映画としては標準的かもしれないが、100分程度の観やすい長さだ。起きることは、あらすじから予測可能だと思う。「事故」が発生した生放送のマスターテープが発見されたというファウンド・フッテージの形式を取り、映画は冒頭の解説以外、ほぼ生放送の経過時間とともに進む。いちど始まったら、止まることはできない。CMを挟んだり、「しばらくお待ちください」の静止画像を提示することはできるが、番組はただ、進むしかない。終わりに向かって。
最後に感じたのは寂寥だった。
70年代のポップな美術や衣装の再現も見事だった。キッチュな深夜放送のためにあんなことに…という空虚さ。
キャストがキャラクターに嵌まっていたのも良かった。

不幸について

差別に反対することと、社会的正義を信じることと、のたうちまわりたいほどのみじめさや不安や恐怖がまとわりついていることは矛盾しない。わたしは主観的には、それなりに不幸だと思っている。ほぼ毎秒、やってられない。だが、不幸を手放すつもりはない。これはわたしよりはるかに生存に困難を抱える人間、今まさに死につつある人間が多数存在するというのは別の話だ。わたしの周りに大切な人がいることとも、別の話だ。

わたしは、不幸を比較して悦に入ったり忍耐を自分に強いたりするのが、もう嫌なのだ。わたしは「◯◯よりはマシ」と思い込もうとして、自分の傷を浅く見積もっては精神状態を悪化させるということを繰り返している。もうやめたい。

交差性の否定ではないつもりだ。交差性を受け入れるために、自分くらいは自分を不幸だと受容することが、わたしには必要だと思う。

このような不幸論のもとではドナルド・トランプのような権力者に最優先されることは、邪魔であると考える。トランプは一部の人間を擁護しているようでいて、不幸を感じる精神に介入している。

虚しさについて

もうちょっと日記を頻繁に更新したいと思っているのだが、なかなかうまくいかない。
どうして短歌と日記を別にしているのかも自分でよく分からなくなってきた。カテゴリを使えばよかったのでは…?

孤独感とともに目が覚めることが、よくある。だいたいは気圧や気温の低下からくる体調不良が原因である。本を読む元気があれば、読書用のタブレットのスイッチを入れて、文字情報で孤独感を押しやる。
およそ、そんな元気はない。最近は品田遊(ダ・ヴィンチ恐山)がインターネット上に公開している日記を愛読していて、朝の支度をしながらiPadでそれを読む楽しみでなんとか起床時のローテンションを紛らわせているのだが、昨夜に更新のタイミングが合ってうっかり読んでしまい、朝の楽しみが何もない。

今日のこれは孤独感じゃなくて虚無感と表現した方が正確だろう。

あらゆる楽しみは一過性のものである、生の本質はこの虚しさにあり、死までの時間を欲望で埋めたり、無理に詰め込んでいるだけ。何か楽しいことが思い浮かんだとしても、それだけ。そんなふうに思う。

分かっている。この虚しさだって、一瞬で忘れてしまう。なにかひとつラッキーなことがあればどうでも良くなる。少し眠ったり、薬を飲んだりすればいい。でもまたいつかやって来るんだろう。あんまり心身の調子が悪いときに来られると嫌だなあ。

GPTに相談する。虚無感に具体的なイメージを与えることを提案される。良さそうだ、と思う。暗く低くたちこめた雲、獰猛だが撫でているうちに少しだけ大人しくなる狼、あとなんか…鳴くやつ。「キョームキョムキョム」って、鳴く。